2021年9月14日 (火)

天国から…Dr.ルーツの92歳の誕生日

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ルーツ・ファウ博士の92歳の誕生日を祝う会 がカラチにあるMALC(マリ・アデライドハンセン病センター)で、行われました。
MALCは2021年9月9日にカフェテリアでケーキカットのセレモニーを行い、デスク担当者や上級管理職とともに、
人類のために捧げた彼女の無私の人生を称えました。

MALCのCEOであるMervyn Lobo氏はスピーチの中で、「私が死んだら、神様に5~10分だけお願いして、MALCでの仕事がどのように続けられているかを見に来てもらいたい」という彼女の言葉を引用し、プログラムに対する彼女の献身を回想しました。
式典の主催者であるMALCのクリエイティブ・マネージャー、Nisar Malik氏は最後に、パキスタンでは数年経っても、ハンセン病の活動と言えばPfau博士の名前が出てくると述べました。そして、「自分のために生きた人は死ぬが、人のために尽くした人は永遠に生き続ける」と締めく

くりました。

歌集 「マリアの心」

マリアの御心会の楽譜棚に、古色帯びた茶色いファイルがありました。

それは、心に触れることばと親しみやすいメロディーの楽曲の数々でした。Sr.石澤恵美子直筆の楽譜のコピーを集めたもので、難点は読みづらいことでした。
マリアの御心会会員たちは、その歌に魅せられ、読み難さを乗り越えて、すべての歌を愛唱しています。

2019年、マリアの御心会が日本での設立60周年を祝った記念として、この度歌集としてまとめることになりました。

歌は数十曲ですが、正しく浄写する作業は、素人にはなかなか難しい仕事でした。
そこへ、すばらしい援護者があらわれました。中舘伸一氏と生方秀行氏のお二人です。
日本合唱指揮者協会理事の中館氏は、以前から、マリアの御心会のコーラスの指導をして下さっていて、歌集作りの始めから大変お世話になりました。
東京音楽大学声楽部助手の生方氏は、実際に楽曲を浄書して下さり、音楽的に精確な楽譜に仕上げて下さいました。

お二人の助けがなければ、完成に至ることはできませんでした。心から感謝を申し上げます。

この歌集を手にして歌ってくださる方がたが、神様に祝福され、音楽の喜びを感じながら神様を賛美されることを願っております。

2018年6月19日 (火)

ルーツさんとマリアのみ心会    Dr.ルーツ ファウのこと、再び  

ルーツは「人々の役に立ちたい」と望み、医師になり、「マリアのみ心会」に入会しました。

不穏な時代が始まろうとしていた192999日、ルーツはドイツのライプツィヒに生まれました。誕生の翌月には世界大恐慌が起き、ナチズムが台頭し、10年後には第2次世界大戦がはじまりました。ルーツは少女時代をナチの支配下で過ごし、東ドイツで終戦を迎えました。

 

自由を希求したルーツは1948年、西ドイツへ命がけの越境を断行しました。西ドイツでは生活も経済も順調に復興し自由を謳歌できました。勉強が好きで、人のために役立ちたいと望んだルーツは、医学部へ進学しました。ルーツは友人たちと人生について信仰について語り合い思索する日々を過ごしました。そしていつしか、「イエス・キリストに呼ばれている。修道生活がわたしの道だ」と確信するようになりました。

ルーツは医師になり、神の呼びかけに応えるべく「マリアのみ心会」に入会しました。マリアのみ心会のパリ本部で修道生活の養成を受け、修道誓願を立てたあと、ルーツはインドへ派遣されることになりました。

 

パキスタンのハンセン病患者とともに57年間

ルーツはインドのビザの発給を、カラチで待ちました。ある日スラムは案内され、劣悪な状況に置かれたハンセン病患者たちの惨状を見ました。「人間はたった一回の人生を生きる。その尊い人生を、このような状況で生きてはならない」。ルーツは、カラチに残ることを希望しました。それは19603月、ルーツ30歳の時の出来事でした。

それから57年間、ルーツはパキスタンでハンセン病と闘いました。1962年、カラチにハンセン病専門病院を設立し、マリアのみ心会の創立者の名前をとって「マリー・アデライド・ハンセン病センター」と名付けました。その後、全土に157の分院を開設し、そこで働く多くのパラメディカル(医療助手)を養成しました。1996年、国連世界保健機関(WHO)は、パキスタンはアジアで早期にハンセン病の感染がなくなった国の一つだと宣言しました。

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国葬、記念切手の発行、公立病院の改名

2017810日ルーツは天寿を全うしました。パキスタンイスラム共和国は、ルーツの生涯を讃え惜しみない敬意を表しました。盛大な国葬を営み、記念切手と記念コインを発行し、カラチ最大の「カラチ市民病院」を「Dr.ルーツ・ファウ記念 カラチ市民病院」と改名し、さらに他のいくつかの病院と医療学校がルーツの名に因んで改名されました。

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“神様ありがとう”

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ルーツは「パキスタンのマザーテレサ」と呼ばれています。インドとパキスタンの二人のマザーテレサに共通することは「神さまに使命を与えられ、苦しむ人びとと共に生きたこと」です。神さまの呼びかけに応えた二人の人生を、神さまに感謝します。そしてわたしたちも、神さまのお望みに応えて生きられますようにと祈ります。(清水範子 dhm)

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2018年5月10日 (木)

Dr.Ruth 記念コイン


 

Governor State Bank of Pakistan (SBP) Tariq Bajwa, together with German Ambassador to Pakistan Martin Kobler, Tuesday unveiled Rs50 commemorative coin in recognition of meritorious services rendered by Dr Ruth Katherina Martha Pfau at the SBP Headquarters in Karachi.

The SBP after approval from the federal government issued the commemorative coin, which would be available for public issuance across the country through SBP Banking Service Corporation offices from May 9, 2018.

 

2018年1月23日 (火)

パキスタンのマザ―テレサ Dr.Ruth Pfau, dhm

 

 

8月初め、「Dr.ルーツ危篤」という知らせが届いた。ルーツは、ドイツ人のマリアの御心会会員で57年前からパキスタンで働いている。わたしは急遽パキスタンのビザの手続きを始めたが、10日には逝去のメールが届いた。続いて、パキスタン政府が、Dr.ルーツの国葬を営むことを決めたというニュースが届いた。
 

パキスタンは、19478月に英領インドから分かれて、イスラム教のパキスタンとして独立した。パキスタン70年の歴史の中で、国葬が営まれた文民は2人、今回は3人目である。イスラム共和国が、カトリックの1女性のために国葬をした。その後、いったいこの女性は何者だったのか。 

ルーツの生涯を簡単にたどってみよう。ルーツ・ファウは192999日ドイツのライプツィヒで生れた。ライプツィヒは、昔から出版と音楽活動が盛んな都市で、ルーツの父親も出版業に携わっていた。1929年、時代の雲行きは不穏だった。誕生の翌月には、歴史上最悪の世界大恐慌が始まり、ナチスの台頭がドイツ社会を変えつつあった。そして10年後の1939年には第2次世界大戦に突入した。

ルーツの少女時代は、昭和初期に生れた日本の少女たちのそれと重なる。敗戦時に、ドイツは東ドイツ西ドイツに分けられてしまう。ルーツは東ドイツで終戦を迎えた。戦争中にナチスの支配下で、「自由」を希求したルーツは、1948年、自由を求めて東ドイツから西ドイツへの命がけの越境を決意した。その状況を伝記は次のように書いている。 

「彼女はまず、東西ドイツの境界線近くまで列車に乗った。そこから東西の中間地帯に忍び入り、野越え谷越え2昼夜歩いた。ある丘にさしかかったとき、2人の監視兵に止められた。一人はロシア人、もう一人はドイツ人であった。ドイツ人兵士は、ロシア人兵士に、『わたしがこの女性を収容所に連れて行く。すぐ戻ってくる』と言い残して、ルーツの前を歩きだした。しばらく行くと彼は前方を指さし、『あの向こうが西ドイツだ』とささやいた。 

ルーツは我を忘れ、示された方向に走った。」やがて家族全員が西ドイツで合流できた。

西ドイツは社会も経済も順調に復興し、ルーツは「自由」のありがたさとよろこびに浸った。勉強が好きで、人のために役立ちたいという望みをもっていたルーツは、医学部へ進学した。

 ルーツは多くの友人をもち、人生について信仰について友情について語り合い思索した。ボーイフレンドがプロポーズしたときに、彼女は「わたしはイエス・キリストに呼ばれている。修道院に入る」と言って申し出を断ったそうだ。すると彼は言った、「もし他の人間を選ぶといったらその人と闘うけれど、相手がイエスなら無理だ、諦める」。 

信仰深いボーイフレンドだったお陰で、神様のお召しに無事応えることができた。

やがてルーツは医師になり、マリアの御心会に入会し、パリの本部に送られて修道生活の養成期間を過すことになった。彼女は、パリで初めてインド人や日本人や世界各地からの会員たちと出会い、新しい世界を体験した。

その頃、インドのマリアの御心会は医師の会員を求めていた。ルーツはそれに応えようとインド行きのビザを申請するがなかなか下りなかった。 

ルーツはインドのビザをパキスタンで待つことにして、カラチまで行った。既にカラチのスラムで働いていたメキシコ人の薬剤師ベルニスが、ある日ルーツをスラムへ連れて行った。

そこでルーツが目にした惨状は、ルーツのインド行きの決心を覆す。ハンセン病に罹った人たちが、劣悪の環境の中に置かれていたのだ。 

ルーツは考えた、「人間は皆、たった一つの人生を生きる。その尊い人生を、このような状況で生きる人がいてはいけない」と。それは1960年3月の出来事であった。

それから57年間、ルーツは懸命に働き、パキスタンの津々浦々を巡回してハンセン病患者を治療し、病気の正しい知識を伝え、患者と家族の人間としての尊厳を守ることに尽くした。 

1962年にカラチにパキスタン初のハンセン病専門病院を設立し、マリアの御心会の創立者の名前をとって「マリー・アデライド・ハンセン病センター」と名付けた。

その後、全国に157の分院を開設した。そこで働く多くのパラメディカル(医療助手)を養成した。国連世界保健機関(WHO)は1996年に、パキスタンがアジアで初めて、ハンセン病の感染が無くなった国の一つだと宣言した。

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ルーツの居室は、広さ4畳くらいベッドとパソコンと数冊の本しかなかった。神に身を捧げて生きることが、ルーツの最高の喜びであった。神の意志に従い、神の望みを果たした人生に満足し、自分の名を刻むことは何もしなかった。

ところが、盛大な国葬の後、パキスタン・シンド州は、カラチ市最大の「カラチ市民病院」を「Dr.ルーツ ファオ・カラチ市民病院」と改名した。その他、空軍の医学校、ラホールの女子大、ギルジットのハンセン病センター、ラルカナのハンセン病センターがDr.ルーツの名前を入れて改名した。 

秋には記念切手が発行された、続いて記念コインが発行されるという。

生前にもルーツの功績は認められ、パキスタン、ドイツ、フィリピン、オーストラリアなどから、何度も表彰され受賞した。しかし、ルーツ自身はそれらにまったく無頓着であった。

わたしは思う、「パキスタンのマザーテレサ」と呼ばれたルーツは、インドのマザーテレサ同様、決して有名になりたくはなかった。しかし、活動がわたしたちの眼に触れ、わたしたちの意識を喚起するために、「有名になる」役割も神から与えられるのだ。使命の一環として賞も受けるのだと。

困難の中にいる人びとを気遣っていたルーツは、一年前にわたしに提案した。

「ドイツに難民が押し寄せている。なかにはウルドゥ語しか分からない難民もいる。わたしたちの病院には、英語とウルドゥ語の通訳ができるスタッフがいる。その人たちを、ドイツに派遣したらどうだろうか。」

わたしは、すぐに応えられなかった。東日本大震災が起きた当初、「ボランティアで来る人は、自分の寝る場所を確保し、食料を持参してくるように」と言われたことを思い出したのだった。

わたしはその後、情報を集める努力もせずに今日に至っている。87歳のルーツの世界を包む愛と想像力。わたしは彼女から宿題を預ったまま、小さな自分の中に閉じこもっている気がする。(2017

2017年12月26日 (火)

クリスマスのメッセージ

    

 

わたしは裸で生まれた、あなたが自我を脱ぎ捨

てるために

 わたしは貧しく生まれた、あなたがわたしを唯一

の富とみなすために

 

わたしは弱いものとして生まれた、あなたが

わたしを怖がらないように

 

わたしは人間として生まれた、あなたが神の

子となるために


わたしはあなたの中に生まれた、

あなたを通してあなたと共に

すべての人を父の家に連れて行くために

2017年11月12日 (日)

祈りのグループ ”Con Duc Me"(マリアの子供)

2015年の夏に、3,4人の若いベトナム人と富士見で祈ったのが始まりで、今年は、毎月平均12,3人集まって祈るようになった「マリアの子供」(Con Duc Me)祈りのグループです。
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今日は、最近寄せられた参加者の声を紹介します。

ほとんどが20代の若いベトナム人世代です。言葉・文化の違いの中で苦労しながら頑張っている彼らに、信仰は大きな力、慰め、希望になっていることは毎回の分かち合いでもよく伝わってきます。

そんな生活の中でも、どこかにぶつけたくなった「声」です。

そして、信仰の喜びと力に生きている仲間の「声」、励ましです。

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「最近何のために頑張っているのか分からなくなります。

 「私って頑張ってるじゃん」みたいな自己満足も出来ない。
疲れて帰ってきて、ついうとうとして目を覚ました時、
何だかとても虚しい気持ちになります。


そして、何かを楽しいと思うことも減ってきました。
そして、とにかく疲れています・・・自分でも「疲れている」と分かります。
一人でいるのが凄く落ち着きます、しかし寂しくも感じます。

 近しい友人はみんな結婚し、疎遠になりました。
仕事だけは自分を必要としてくれるから頑張れていたのに、
それですら辛くなってしまったら、何のために頑張るのか分からなくなります。

 そこで頑張ることが自分の価値でしかないのに、それに目的を無くしたら
自分は一体何なんだろう・・・そう思うことばかりです。

 少し休んでボーッとしてみたいのですが、休むと仕事が溜まるので休めません。

 仕事をすることが嫌、という感覚とは少し違います。
「何のために頑張っているんだろう?」という感情です。

 バリバリ働いていないといけない年齢でお恥ずかしい限りです。
「頑張る目的」というものの見出し方、見出された方は経験談を教えてください。
今は、自分で自分がよく分からない・・・それが一番しっくりきます。」(L

 

 

「勉強と仕事で過ごしたこの1か月はどんなでしたか?元気で満足でしたか。あるいは難しいことがあって大変で淋しかったですか。

何はともあれ、一日ゆっくり休んで神様に感謝する日を持ちましょう。そのために、ここが最良の場所とは言いませんが、神さまの愛があり、みんなの分かち合いの中に温かい一致があり、お互いに祈り合える場所があります。祈りのグループ:Con Duc Me です。」(T

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「人は疲れすぎるとマイナスの傾向に向いていきますね。休めるといいですが…あなたは本当にまじめな良い方なので疲れてしまうのでしょう。この機会は何か神さまからのメッセージだと思いますが、神さまに聞いてみてください。

 

私が言えるのは、あなたは神さまから愛されている存在だということです。

 

すべての人は、神さまから愛され存在しています。そして、神さまに向かって生きるとき、本当の自分になれると思います。」(OLogo_2

2017年11月10日 (金)

Special coin in honour of Dr. Ruth

 

GEO NEWS October 09, 2017

Govt to issue special coin in honour of Dr Ruth Pfau