[種まく人のたとえばなし - 教会学校のクラスで
春は名のみの風の寒さや・・・ と歌い出す「早春賦」の歌が大好きで、そしてその風の中で春を探すのが大好きです。
教会の庭の桜のつぼみ、まだです。かたく閉じています。花壇のお花は? うち萎れた葉っぱは、起き上がる気配もありません。小さな木の名札が埋め込んであるところには、何かの種がまかれているようです。
本当の春になったら、ここはお花でいっぱいになることでしょう。そんなことを思っていると、イエス様の「種まく人のたとえ話」が浮かんできました。
種は神のことば、土は人々のこと、どの土(人)にまかれた種が多くの実を結ぶのか・・・・。
道端の土:一応みことばを聞くが、悪魔によって心にあるみことばを奪い取られる人。
岩の上の土:みことばを聞いて喜んで受け入れるが根がないので、試みに会うとすぐに離れる人。
いばらの中の土: みことばを聞いても日がたつと、この世の思いわずらいや富の誘惑におおいふさがれて、実が熟するまでに至らない人。
良い土:みことばを聞いて悟り、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶ人。
よい土にまかれたもの以外は、だめみたい。
でもたとえ話には、文字通りの解釈だけでなく隠れた意味があるはず、イエスさまは何をおっしゃりたいのかな、と思い続けていると、小さな子供が教えてくれたのです。
教会学校の聖書の時間に、このたとえ話を読んでから、それぞれの土に落ちた種がどうなったか、絵に描いてみましょう、という課題をだしました。
画用紙には、良い土、道ばた、石の山、いばらの茂みがかいてあり、どの子も、良い土に落ちた種にだけ、きれいな花を咲かせました。
でも、一人、どの土に落ちた種からも花を咲かせた男の子がいました。おまけにいばらの木そのものに花を咲かせているのです。
「いばらの中に落ちても花が咲くの? いばらに花が咲いちゃったの?」
「うん、だれかが水をやって世話をすれば、いばらが花になっちゃうよ。」
そうだったのです。
愛という水をまいて、寄り添えば、苦境にもきっと花が咲く。
助け合い、励ましあって、信仰を固く保つように・・・イエス様はそうもおっしゃりたかったのかもしれません。
(SN)
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