心にいただくご馳走
四福音書の中でもルカは特に多くのたとえばなしを書き、イエスの人間への想いや愛を伝えようとしています。
それは、ある時は誰にでもわかる素直な表現で、また、ある時は思いめぐらさなければその根底の想いがわからない難しいものもあります。
今、私は船橋学習センターの色々な講座に参加していますが、内容の濃い講座が多く、船橋通いが増えています。
その中に 「人生の意味を探る」という講座があるのですが、この講座はいつも私に新しい気づきを与えてくれる貴重な講座となっています。
この講座は、ルカのたとえばなしを、参加者の分かち合いによってその裏にあるイエスの想いを探り、またそのたとえばなしが私たちの生活の中でどのように生かされているかを解き明かしていくという実に醍醐味あるものです。
そして、その分かち合いでは、参加者各自が自分の生活を語り、ある時はみんなで笑い合い、ある時はみんなで一緒に悲しみを共有していることを感じます。
たとえばなしの中で私が好きなものの一つに「種まく人」があるのですが、このたとえばなしを聞くたびに「ああ、私は石の上に蒔かれた種なんだな」と思ったものです。
神の思いは喜んで受け入れるのですが、所詮水気のない石の上に蒔かれた種、苦しみに会うとそれを乗り越える前に身を引いてしまうのです。
ということは、実る前に枯れてしまう種なのです。
でも、ミレーの「種まく人」の農夫は、一粒の種をまいているのではなく、わしづかみに種をつかんで思いっきりまいています。きっと私の中にもたった一粒ではなく、種はいっぱいまかれているのでしょう。
私の中にある石地にも、道端にも、いばらの上にも、よい土地の上にも。
ほんの少しの種かもしれませんが、よい土地に蒔かれて実を結んでいる種の存在に私が気づいていないだけなのかもしれません。
きっと、今までもいろんな形で多くの実を結んでくれたことでしょう。「種まく人」はそういう希望と確信が隠れているたとえばなしだと気づいたのです。
一つ一つのたとえばなしは一見厳しく見える時もありますが、その根底には神の愛があふれていることを感じます。
その希望を見つけた時、私はお腹にではなく、心の中に大きなご馳走をただいた思いがしました。
船橋学習センターには色々な講座が大盛りのご馳走のように私たちを待っています。
(SM)
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