パキスタンのマザ―テレサ Dr.Ruth Pfau, dhm
8月初め、「Dr.ルーツ危篤」という知らせが届いた。ルーツは、ドイツ人のマリアの御心会会員で57年前からパキスタンで働いている。わたしは急遽パキスタンのビザの手続きを始めたが、10日には逝去のメールが届いた。続いて、パキスタン政府が、Dr.ルーツの国葬を営むことを決めたというニュースが届いた。
パキスタンは、1947年8月に英領インドから分かれて、イスラム教のパキスタンとして独立した。パキスタン70年の歴史の中で、国葬が営まれた文民は2人、今回は3人目である。イスラム共和国が、カトリックの1女性のために国葬をした。その後、いったいこの女性は何者だったのか。
ルーツの生涯を簡単にたどってみよう。ルーツ・ファウは1929年9月9日ドイツのライプツィヒで生れた。ライプツィヒは、昔から出版と音楽活動が盛んな都市で、ルーツの父親も出版業に携わっていた。1929年、時代の雲行きは不穏だった。誕生の翌月には、歴史上最悪の世界大恐慌が始まり、ナチスの台頭がドイツ社会を変えつつあった。そして10年後の1939年には第2次世界大戦に突入した。
ルーツの少女時代は、昭和初期に生れた日本の少女たちのそれと重なる。敗戦時に、ドイツは東ドイツ西ドイツに分けられてしまう。ルーツは東ドイツで終戦を迎えた。戦争中にナチスの支配下で、「自由」を希求したルーツは、1948年、自由を求めて東ドイツから西ドイツへの命がけの越境を決意した。その状況を伝記は次のように書いている。
「彼女はまず、東西ドイツの境界線近くまで列車に乗った。そこから東西の中間地帯に忍び入り、野越え谷越え2昼夜歩いた。ある丘にさしかかったとき、2人の監視兵に止められた。一人はロシア人、もう一人はドイツ人であった。ドイツ人兵士は、ロシア人兵士に、『わたしがこの女性を収容所に連れて行く。すぐ戻ってくる』と言い残して、ルーツの前を歩きだした。しばらく行くと彼は前方を指さし、『あの向こうが西ドイツだ』とささやいた。
ルーツは我を忘れ、示された方向に走った。」やがて家族全員が西ドイツで合流できた。
西ドイツは社会も経済も順調に復興し、ルーツは「自由」のありがたさとよろこびに浸った。勉強が好きで、人のために役立ちたいという望みをもっていたルーツは、医学部へ進学した。
ルーツは多くの友人をもち、人生について信仰について友情について語り合い思索した。ボーイフレンドがプロポーズしたときに、彼女は「わたしはイエス・キリストに呼ばれている。修道院に入る」と言って申し出を断ったそうだ。すると彼は言った、「もし他の人間を選ぶといったらその人と闘うけれど、相手がイエスなら無理だ、諦める」。
信仰深いボーイフレンドだったお陰で、神様のお召しに無事応えることができた。
やがてルーツは医師になり、マリアの御心会に入会し、パリの本部に送られて修道生活の養成期間を過すことになった。彼女は、パリで初めてインド人や日本人や世界各地からの会員たちと出会い、新しい世界を体験した。
その頃、インドのマリアの御心会は医師の会員を求めていた。ルーツはそれに応えようとインド行きのビザを申請するがなかなか下りなかった。
ルーツはインドのビザをパキスタンで待つことにして、カラチまで行った。既にカラチのスラムで働いていたメキシコ人の薬剤師ベルニスが、ある日ルーツをスラムへ連れて行った。
そこでルーツが目にした惨状は、ルーツのインド行きの決心を覆す。ハンセン病に罹った人たちが、劣悪の環境の中に置かれていたのだ。
ルーツは考えた、「人間は皆、たった一つの人生を生きる。その尊い人生を、このような状況で生きる人がいてはいけない」と。それは1960年3月の出来事であった。
それから57年間、ルーツは懸命に働き、パキスタンの津々浦々を巡回してハンセン病患者を治療し、病気の正しい知識を伝え、患者と家族の人間としての尊厳を守ることに尽くした。
1962年にカラチにパキスタン初のハンセン病専門病院を設立し、マリアの御心会の創立者の名前をとって「マリー・アデライド・ハンセン病センター」と名付けた。
その後、全国に157の分院を開設した。そこで働く多くのパラメディカル(医療助手)を養成した。国連世界保健機関(WHO)は1996年に、パキスタンがアジアで初めて、ハンセン病の感染が無くなった国の一つだと宣言した。
ルーツの居室は、広さ4畳くらいベッドとパソコンと数冊の本しかなかった。神に身を捧げて生きることが、ルーツの最高の喜びであった。神の意志に従い、神の望みを果たした人生に満足し、自分の名を刻むことは何もしなかった。
ところが、盛大な国葬の後、パキスタン・シンド州は、カラチ市最大の「カラチ市民病院」を「Dr.ルーツ ファオ・カラチ市民病院」と改名した。その他、空軍の医学校、ラホールの女子大、ギルジットのハンセン病センター、ラルカナのハンセン病センターがDr.ルーツの名前を入れて改名した。
秋には記念切手が発行された、続いて記念コインが発行されるという。
生前にもルーツの功績は認められ、パキスタン、ドイツ、フィリピン、オーストラリアなどから、何度も表彰され受賞した。しかし、ルーツ自身はそれらにまったく無頓着であった。
わたしは思う、「パキスタンのマザーテレサ」と呼ばれたルーツは、インドのマザーテレサ同様、決して有名になりたくはなかった。しかし、活動がわたしたちの眼に触れ、わたしたちの意識を喚起するために、「有名になる」役割も神から与えられるのだ。使命の一環として賞も受けるのだと。
困難の中にいる人びとを気遣っていたルーツは、一年前にわたしに提案した。
「ドイツに難民が押し寄せている。なかにはウルドゥ語しか分からない難民もいる。わたしたちの病院には、英語とウルドゥ語の通訳ができるスタッフがいる。その人たちを、ドイツに派遣したらどうだろうか。」
わたしは、すぐに応えられなかった。東日本大震災が起きた当初、「ボランティアで来る人は、自分の寝る場所を確保し、食料を持参してくるように」と言われたことを思い出したのだった。
わたしはその後、情報を集める努力もせずに今日に至っている。87歳のルーツの世界を包む愛と想像力。わたしは彼女から宿題を預ったまま、小さな自分の中に閉じこもっている気がする。(2017)
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