奉献生活

2021年9月14日 (火)

歌集 「マリアの心」

マリアの御心会の楽譜棚に、古色帯びた茶色いファイルがありました。

それは、心に触れることばと親しみやすいメロディーの楽曲の数々でした。Sr.石澤恵美子直筆の楽譜のコピーを集めたもので、難点は読みづらいことでした。
マリアの御心会会員たちは、その歌に魅せられ、読み難さを乗り越えて、すべての歌を愛唱しています。

2019年、マリアの御心会が日本での設立60周年を祝った記念として、この度歌集としてまとめることになりました。

歌は数十曲ですが、正しく浄写する作業は、素人にはなかなか難しい仕事でした。
そこへ、すばらしい援護者があらわれました。中舘伸一氏と生方秀行氏のお二人です。
日本合唱指揮者協会理事の中館氏は、以前から、マリアの御心会のコーラスの指導をして下さっていて、歌集作りの始めから大変お世話になりました。
東京音楽大学声楽部助手の生方氏は、実際に楽曲を浄書して下さり、音楽的に精確な楽譜に仕上げて下さいました。

お二人の助けがなければ、完成に至ることはできませんでした。心から感謝を申し上げます。

この歌集を手にして歌ってくださる方がたが、神様に祝福され、音楽の喜びを感じながら神様を賛美されることを願っております。

2018年6月19日 (火)

ルーツさんとマリアのみ心会    Dr.ルーツ ファウのこと、再び  

ルーツは「人々の役に立ちたい」と望み、医師になり、「マリアのみ心会」に入会しました。

不穏な時代が始まろうとしていた192999日、ルーツはドイツのライプツィヒに生まれました。誕生の翌月には世界大恐慌が起き、ナチズムが台頭し、10年後には第2次世界大戦がはじまりました。ルーツは少女時代をナチの支配下で過ごし、東ドイツで終戦を迎えました。

 

自由を希求したルーツは1948年、西ドイツへ命がけの越境を断行しました。西ドイツでは生活も経済も順調に復興し自由を謳歌できました。勉強が好きで、人のために役立ちたいと望んだルーツは、医学部へ進学しました。ルーツは友人たちと人生について信仰について語り合い思索する日々を過ごしました。そしていつしか、「イエス・キリストに呼ばれている。修道生活がわたしの道だ」と確信するようになりました。

ルーツは医師になり、神の呼びかけに応えるべく「マリアのみ心会」に入会しました。マリアのみ心会のパリ本部で修道生活の養成を受け、修道誓願を立てたあと、ルーツはインドへ派遣されることになりました。

 

パキスタンのハンセン病患者とともに57年間

ルーツはインドのビザの発給を、カラチで待ちました。ある日スラムは案内され、劣悪な状況に置かれたハンセン病患者たちの惨状を見ました。「人間はたった一回の人生を生きる。その尊い人生を、このような状況で生きてはならない」。ルーツは、カラチに残ることを希望しました。それは19603月、ルーツ30歳の時の出来事でした。

それから57年間、ルーツはパキスタンでハンセン病と闘いました。1962年、カラチにハンセン病専門病院を設立し、マリアのみ心会の創立者の名前をとって「マリー・アデライド・ハンセン病センター」と名付けました。その後、全土に157の分院を開設し、そこで働く多くのパラメディカル(医療助手)を養成しました。1996年、国連世界保健機関(WHO)は、パキスタンはアジアで早期にハンセン病の感染がなくなった国の一つだと宣言しました。

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国葬、記念切手の発行、公立病院の改名

2017810日ルーツは天寿を全うしました。パキスタンイスラム共和国は、ルーツの生涯を讃え惜しみない敬意を表しました。盛大な国葬を営み、記念切手と記念コインを発行し、カラチ最大の「カラチ市民病院」を「Dr.ルーツ・ファウ記念 カラチ市民病院」と改名し、さらに他のいくつかの病院と医療学校がルーツの名に因んで改名されました。

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“神様ありがとう”

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ルーツは「パキスタンのマザーテレサ」と呼ばれています。インドとパキスタンの二人のマザーテレサに共通することは「神さまに使命を与えられ、苦しむ人びとと共に生きたこと」です。神さまの呼びかけに応えた二人の人生を、神さまに感謝します。そしてわたしたちも、神さまのお望みに応えて生きられますようにと祈ります。(清水範子 dhm)

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2018年1月23日 (火)

パキスタンのマザ―テレサ Dr.Ruth Pfau, dhm

 

 

8月初め、「Dr.ルーツ危篤」という知らせが届いた。ルーツは、ドイツ人のマリアの御心会会員で57年前からパキスタンで働いている。わたしは急遽パキスタンのビザの手続きを始めたが、10日には逝去のメールが届いた。続いて、パキスタン政府が、Dr.ルーツの国葬を営むことを決めたというニュースが届いた。
 

パキスタンは、19478月に英領インドから分かれて、イスラム教のパキスタンとして独立した。パキスタン70年の歴史の中で、国葬が営まれた文民は2人、今回は3人目である。イスラム共和国が、カトリックの1女性のために国葬をした。その後、いったいこの女性は何者だったのか。 

ルーツの生涯を簡単にたどってみよう。ルーツ・ファウは192999日ドイツのライプツィヒで生れた。ライプツィヒは、昔から出版と音楽活動が盛んな都市で、ルーツの父親も出版業に携わっていた。1929年、時代の雲行きは不穏だった。誕生の翌月には、歴史上最悪の世界大恐慌が始まり、ナチスの台頭がドイツ社会を変えつつあった。そして10年後の1939年には第2次世界大戦に突入した。

ルーツの少女時代は、昭和初期に生れた日本の少女たちのそれと重なる。敗戦時に、ドイツは東ドイツ西ドイツに分けられてしまう。ルーツは東ドイツで終戦を迎えた。戦争中にナチスの支配下で、「自由」を希求したルーツは、1948年、自由を求めて東ドイツから西ドイツへの命がけの越境を決意した。その状況を伝記は次のように書いている。 

「彼女はまず、東西ドイツの境界線近くまで列車に乗った。そこから東西の中間地帯に忍び入り、野越え谷越え2昼夜歩いた。ある丘にさしかかったとき、2人の監視兵に止められた。一人はロシア人、もう一人はドイツ人であった。ドイツ人兵士は、ロシア人兵士に、『わたしがこの女性を収容所に連れて行く。すぐ戻ってくる』と言い残して、ルーツの前を歩きだした。しばらく行くと彼は前方を指さし、『あの向こうが西ドイツだ』とささやいた。 

ルーツは我を忘れ、示された方向に走った。」やがて家族全員が西ドイツで合流できた。

西ドイツは社会も経済も順調に復興し、ルーツは「自由」のありがたさとよろこびに浸った。勉強が好きで、人のために役立ちたいという望みをもっていたルーツは、医学部へ進学した。

 ルーツは多くの友人をもち、人生について信仰について友情について語り合い思索した。ボーイフレンドがプロポーズしたときに、彼女は「わたしはイエス・キリストに呼ばれている。修道院に入る」と言って申し出を断ったそうだ。すると彼は言った、「もし他の人間を選ぶといったらその人と闘うけれど、相手がイエスなら無理だ、諦める」。 

信仰深いボーイフレンドだったお陰で、神様のお召しに無事応えることができた。

やがてルーツは医師になり、マリアの御心会に入会し、パリの本部に送られて修道生活の養成期間を過すことになった。彼女は、パリで初めてインド人や日本人や世界各地からの会員たちと出会い、新しい世界を体験した。

その頃、インドのマリアの御心会は医師の会員を求めていた。ルーツはそれに応えようとインド行きのビザを申請するがなかなか下りなかった。 

ルーツはインドのビザをパキスタンで待つことにして、カラチまで行った。既にカラチのスラムで働いていたメキシコ人の薬剤師ベルニスが、ある日ルーツをスラムへ連れて行った。

そこでルーツが目にした惨状は、ルーツのインド行きの決心を覆す。ハンセン病に罹った人たちが、劣悪の環境の中に置かれていたのだ。 

ルーツは考えた、「人間は皆、たった一つの人生を生きる。その尊い人生を、このような状況で生きる人がいてはいけない」と。それは1960年3月の出来事であった。

それから57年間、ルーツは懸命に働き、パキスタンの津々浦々を巡回してハンセン病患者を治療し、病気の正しい知識を伝え、患者と家族の人間としての尊厳を守ることに尽くした。 

1962年にカラチにパキスタン初のハンセン病専門病院を設立し、マリアの御心会の創立者の名前をとって「マリー・アデライド・ハンセン病センター」と名付けた。

その後、全国に157の分院を開設した。そこで働く多くのパラメディカル(医療助手)を養成した。国連世界保健機関(WHO)は1996年に、パキスタンがアジアで初めて、ハンセン病の感染が無くなった国の一つだと宣言した。

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ルーツの居室は、広さ4畳くらいベッドとパソコンと数冊の本しかなかった。神に身を捧げて生きることが、ルーツの最高の喜びであった。神の意志に従い、神の望みを果たした人生に満足し、自分の名を刻むことは何もしなかった。

ところが、盛大な国葬の後、パキスタン・シンド州は、カラチ市最大の「カラチ市民病院」を「Dr.ルーツ ファオ・カラチ市民病院」と改名した。その他、空軍の医学校、ラホールの女子大、ギルジットのハンセン病センター、ラルカナのハンセン病センターがDr.ルーツの名前を入れて改名した。 

秋には記念切手が発行された、続いて記念コインが発行されるという。

生前にもルーツの功績は認められ、パキスタン、ドイツ、フィリピン、オーストラリアなどから、何度も表彰され受賞した。しかし、ルーツ自身はそれらにまったく無頓着であった。

わたしは思う、「パキスタンのマザーテレサ」と呼ばれたルーツは、インドのマザーテレサ同様、決して有名になりたくはなかった。しかし、活動がわたしたちの眼に触れ、わたしたちの意識を喚起するために、「有名になる」役割も神から与えられるのだ。使命の一環として賞も受けるのだと。

困難の中にいる人びとを気遣っていたルーツは、一年前にわたしに提案した。

「ドイツに難民が押し寄せている。なかにはウルドゥ語しか分からない難民もいる。わたしたちの病院には、英語とウルドゥ語の通訳ができるスタッフがいる。その人たちを、ドイツに派遣したらどうだろうか。」

わたしは、すぐに応えられなかった。東日本大震災が起きた当初、「ボランティアで来る人は、自分の寝る場所を確保し、食料を持参してくるように」と言われたことを思い出したのだった。

わたしはその後、情報を集める努力もせずに今日に至っている。87歳のルーツの世界を包む愛と想像力。わたしは彼女から宿題を預ったまま、小さな自分の中に閉じこもっている気がする。(2017

2017年11月10日 (金)

Special coin in honour of Dr. Ruth

 

GEO NEWS October 09, 2017

Govt to issue special coin in honour of Dr Ruth Pfau

Dr Pfau visited Pakistan in the 1960s and ended up staying, adopting Pakistan as her new home as she dedicated her life to taking care of leprosy patients. Photo: Geo News file

ISLAMABAD: Prime Minister Shahid Khaqan Abbasi on Tuesday authorised the issuance of a commemorative coin in honour of late humanitarian Dr Ruth Pfau, who dedicated a lifetime to fighting leprosy in the country.

The decision to issue the special coin was taken in a cabinet session earlier today.

The government has authorised the State Bank of Pakistan to issue a coin worth Rs50 in recognition of Dr Pfau’s service.

The SBP will issue 50,000 commemorative coins of Rs50 each. 

The German-Pakistani doctor breathed her last after a prolonged illness on August 10, 2017, at a private hospital in Karachi. She was 87.

Dr Pfau is the second person to be accorded a state funeral in 29 years, with the last one offered for late philanthropist Abdul Sattar Edhi in 2016.

“The entire nation is indebted to Ruth Pfau for her selfless and unmatched services for the eradication of leprosy. We are proud of her exemplary services and she will remain in our hearts as a shining symbol in times ahead," Prime Minister Abbasi had said.

Dr Pfau visited Pakistan in the 1960s and ended up staying, adopting Pakistan as her new home as she dedicated her life to taking care of leprosy patients.

It was due to her endless struggle that Pakistan defeated the disease and became leprosy-free in 1996.

She was granted Pakistani citizenship in 1988 and received numerous accolades for her services, including the country's top civilian awards Hilal-i-Imtiaz and Hilal-i-Pakistan.

 

2017年9月 1日 (金)

Dr.Ruthが残してくれたもの

カトリック新聞2017年9月3日号に私たちの会員、Dr.Ruthの葬儀のニュースが載りました。

                               

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管区長からの手紙より:

[…]8月は私たちにとって喜びと悲しみの月でした。第34回総会のニュースでカルメンが総長に再選されたこと、総長顧問たちの選挙、そして、Dr.Ruth Pfauの帰天です。

私たちはその自然なほほえみと、見る人の心に突き刺さるような、大きく考え深げに見開かれた眼を持ったDr.Ruthにはもう会うことはできません。これは、パキスタンの姉妹たちにとってはもっと辛いことでしょう。

Dr.Ruthが、総長選出の日にこの世を旅立ち、総会最後の日に埋葬されたのは、単なる偶然の一致だったのでしょうか。彼女は私たちに、イエス・キリストの福音のよい便りを運ぶ人になるように、喜んで与える人になるように、イエス・キリストの貧しい人々や見捨てられた人々と生活を分かち合うようにチャレンジしているのではないでしょうか?一人ひとり置かれている状況でこのチャレンジに答えを見つけましょう。[…]

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2017年8月31日 (木)

Pakistan's "Mother Teresa" passes away

Sr. Ruth Pfau, Pakistan’s ‘Mother Teresa’ passes away


Index

German-born nun Sr. Ruth Pfau, regarded as Pakistan’s ‘Mother Teresa’, was recognized for freeing Pakistan of leprosy. - REUTERS

10/08/2017 13:25

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(Vatican Radio) German-born Catholic missionary Sister Ruth Pfau, who devoted her life to eradicating leprosy in Pakistan, died on Thursday in the southern city of Karachi.  87-year old nun of the Daughters of the Heart of Mary order, widely known as Pakistan's Mother Teresa, was admitted to the Aga Khan Hospital a few days ago suffering from old age complications.

National heroine

Sr. Pfau was eulogized by the prime minister and army chief for her contributions towards freeing the country of the stigmatized disease that can cause disfigurement.

"Pfau may have been born in Germany, her heart was always in Pakistan," Prime Minister Shahid Khaqan Abbasi said in a statement.  " She came here at the dawn of a young nation looking to make lives better for those afflicted by disease, and in doing so, found herself a home. We will remember her for her courage, her loyalty, her service to the eradication of leprosy, and most of all, her patriotism," he added

Pakistani President Mamnoon Hussein also expressed grief at the loss of Sr. Pfau recalling her services for the helpless and neglected in the country. “Dr Pfau’s services to end leprosy in Pakistan cannot be forgotten. She left her homeland and made Pakistan her home to serve humanity. Pakistani nation salutes Dr. Pfau and her great tradition to serve humanity will be continued,” the President stated.

Mission

Born on Sept. 9, 1929 in Leipzig, Sr. Ruth Pfau studied medicine in the1950s at the universities of Mainz and Marburg in then West Germany.  After her graduation she joined the religious order of the Daughters of the Heart of Mary, which sent her on mission to India.  On her way she stopped in Karachi on March 8, 1960, because of some visa problems.  It was here that she became involved with working with people affected by leprosy or Hansen’s Disease.  In 1961 she went to Vellore, South India to acquire training in the management of Leprosy. She then returned to Karachi to organize and expand the Leprosy Control Programme.  She founded the Marie Adelaide Leprosy Centre in Karachi, Pakistan's first hospital dedicated to treating the disease, which today has 157 branches across the country.

"It was due to her endless struggle that Pakistan defeated leprosy," German Consulate Karachi posted on Facebook.  In 1996, the World Health Organization declared that leprosy had been controlled in Pakistan, which led Sr. Pfau to the more challenging task of eliminating the disease.  Last year, the number of patients under treatment for leprosy fell to 531 from 19,398 in the 1980s, the Dawn newspaper said.

Recognition

Sr. Pfau has won numerous honours and prizes in Pakistan and abroad for her humanitarian services.  Germany awarded her the Order of Merit in 1969.  In 1979, the Pakistani government appointed her Federal Advisor on Leprosy to the Ministry of Health and Social Welfare. Pakistani government honoured her with the Hilal-e-Imtiaz in 1979 and the Hilal-e-Pakistan in 1989. She was granted Pakistani citizenship in 1988.  In 2002 she won the prestigious Ramon Magsaysay Award, regarded as Asia’s Nobel prize.

In recognition of the services rendered by late Ruth Pfau for Pakistan, Prime Minister Shahid Khaqan Abbasi has announced state funeral for Ruth Pfau.  The last rite of Sr. Pfau is scheduled for Aug. 19 at St Patrick's Cathedral in Karachi and she will be laid to rest at the Christian cemetery in the city.

 

German-born nun Sr. Ruth Pfau, regarded as Pakistan’s ‘Mother Teresa’, was recognized for freeing Pakistan of leprosy. - REUTERS

10/08/2017 13:25

2017年8月23日 (水)

Speech of His Grace Archbishop Joseph Coutts

Link to the Speech of His Grace Archbishop Joseph Coutts

Delivered at the Funeral Service of Sr. Dr. Ruth Pfau on

August 19, 2017


https://drive.google.com/open?id=0B_PNxCoseyw8bXFGT1pKRzFMWGc

2017年8月21日 (月)

パキスタンのDHM宣教師 Dr.Ruth のこと

パキスタンのDHM会員姉妹から、ドイツ人姉妹、医師のDr.RuthAgh Khan病院のICUに入院、という緊急連絡が入ったのが去る8月5日。一時持ち直したかのようでしたが、本人の生前の強い希望を汲んで延命は行わず自然に天国に旅立ったのが89日でした。

 

日本からは一人の姉妹があわただしくビザを取ってパキスタンへ駆けつけました。葬儀は19日と決まり、国葬になるかもという大きなことになりました。

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社会の中で目立たないで奉仕している人に贈られるマグサイサイ賞を受け取ったのは何年前だったでしょうか。彼女の生涯、生活を見せてもらうと、まさに、見捨てられたような人々のために、彼らと共に病気と闘っていたようです。最近になっていろいろ発表された画像などを見るとそれがよくわかりました。病人からも慕われていたのが納得いきます。

 

イスラム教の色濃い国で、ここまで大きくキリスト教徒、しかも修道女の葬儀が教会で盛大に行われたことは、ハンセン氏病や結核がまだまだこの国では戦わなくてはならない病気で、その最前線で働いていたということでDr.Ruthの葬儀がこれほど盛大だったのではないかと思わせました。

 

以下は、パキスタン(カラチ)で、葬儀に出た姉妹からの報告です。

 

《昨日(819)は、朝840分に家を車で出て、カテドラルで4時間半、墓地で2時間あまりを、昼食抜き、休みなしで(墓地は立ちん坊)過ごしました。夜はTVのチャンネルはどこでも、葬儀の模様を放映しました。今朝の新聞を買いましたので後でご覧ください。

 

カテドラルでは、朝9時から外に立って、Dr.Ruthの到着を待ちました。9時に号砲が(17発とか)鳴り渡り、カラスや野鳥が一斉に飛び立ち大騒ぎ。Dr.Ruthのご遺体が車で到着しました。続いてわたしたちも、聖堂に入り(DHMは最前列)でした。直立不動の兵士に守られたDr.Ruthに、参列者は列を作ってお別れしました。その列が2時間も続きました。一体何人だったのでしょうか。DHMの一人がいうことには、3500人。聖堂内が立ち席を入れて2000、外のテントを張った椅子席と立っていた人で1500だとか言っていましたがよく分かりません、何しろ大変な人でした。

 

ミサは6人の司教様方と大勢の司祭、教会の聖歌隊。TVと新聞のカメラ群。 DHMでは、ガザラがルーツの生涯の説明、聖書朗読がマリアン・マンガ、共同祈願をヘレンが(一人で6つも)しました。ミサの終わりにヘーゼルがカルメンの挨拶を読みました。

 

ものものしく兵士たちがお棺を運び出した後、すぐに車で墓地へ。墓地には首相始めお歴々が来たので、またまた大変な儀式で、2時間余り立ちっ放しでした。(偉い人はお祈りしてすぐ帰った)わたしたちは休憩なし、昼食なし、持参したボトルは飲み干し、やっと4時過ぎに、朝の出発から7時間後に家に帰り着きました。一生に一度の体験です。

 

では、あと3日後に帰途につきます。皆様の熱心なお祈りのおかげでとても元気です。

おやすみなさい。》

2017年1月 9日 (月)

1月9日

1月9日はマリアの御心会の創立者ド・クロリヴィェール神父の帰天記念日です。

世界中のマリアの御心会員は、いろいろな方法で今日の日を祝います。

ある人はマリアの御心会への入会日にこの日を選びます。また、ある会員は終生誓願宣立の宣立日にこの日を選ぶ人もいます。

何はともあれ、今日は地球の上をいろいろな形で手紙や写真、メッセージが飛び交っていることでしょう。

フランス革命下の難しい時代を信頼と信仰だけで生きてきて、その中から特別な霊感を受けてマリアの御心会を創立したクロリヴィェール神父。

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今日は、その神父様を讃えた連祷をご紹介したいと思います。

連祷の一つ一つは神父様の伝記を読むともっとよく意味が分かるでしょう。

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クロリヴィエール神父さま、       私たちのために祈ってください。
祈りの中でキリストのみ旨を忠実に聞いた方、       (同じ)
ご聖体の熱烈な礼拝者、                    (同じ)
聖イグナシオの栄えある息子、                (同じ)
修道生活の勇敢なる擁護者、                 (同じ)
困難が増せば増すほど信頼を強めた方、         (同じ)
イエスとマリアの御心の輝ける崇敬者、          (同じ)
フランスでイエズス会を再建した方、            (同じ)
動乱の中で修道生活の火花を守り抜いた方、          (同じ)
語るときも、行動するときも、ひたすら聖霊の光に従った方、         (同じ)
内的平和と、神の現存の変わらぬ反射,          (同じ)
人目を引かぬ普通の生活のもとで、キリストとともに神のうちに隠れて生きた方、  (同じ)
ご聖櫃のもとで、愛に満たされて生涯を終えられた方、         (同じ)  

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2016年12月31日 (土)

一年が終わって希望の年へ

052283 12月31日。今日は朝から2016年に感謝し、2017年を希望を持って迎えるためにいろいろな準備がありました。

早い人は午前中から「栗きんとん」を作り始めたし…またある人は玄関の外と中に飾ってあった馬小屋の飾りつけを外して代わりに、お正月の輪飾りをつるしたり。。。 ヨーロッパから帰ってきた姉妹は、日本ではクリスマスの飾りをかたずけるのが早すぎる、とぶつぶつつぶやきながら、日本の習慣に従っていました。

そして、いよいよ 午後、大きなテーブルに広げられたいろいろな料理を、これも大きなきれいなお皿に盛りつける 楽しい ”仕事” が始まりました。 お皿に載る料理の色に合わせて庭からとってきた何種類かの木々の葉が素晴らしいデコレーションとなって料理を盛り立てました。

こういう仕事は、私たちが内面に潜在的に持っている”創造力”を掻き立てるんじゃないかなと思います。

上手とか下手とかいうひとはあっても、「嫌い」という人には滅多に会ったことがありません。これって、創造主である神様の子供であるわたしたちがうけついでいるDNAだと思いますが、どうでしょう?



また、年越しそば (私だけ年越しうどんでした!)を、いただいたあとには、全員聖堂に集まって私たちの恒例のご聖体礼拝をしました。

そのあと、2017年1月1日0時のミサに出るために出かけていきました。この日は、クリスマスと違って電車が一晩中走っているので出かけやすいですね。

もうじき幕を開けようとしている2017年が平和と希望、そして何よりも愛の年になりますように ♡ ♡