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2010年3月28日 (日)

考えるイエス-希望による救い

最近の「人身事故」による交通機関の乱れはだんだんひどくなっている気がします。

以前より外出する機会が増えた私は、幸い自分が乗る電車ではなくても他線での事故の知らせを、ほとんど毎日、ホームの電光掲示板で見るようになりました。

先日も、茂原の共同体へ行く途中で「ひっかかって」しまいました。

「○○駅で発生した人身事故の影響で、この電車はここで停車し、しばらく運転を見合わせます。」というアナウンスとともに、振り替え輸送の案内も放送されました。

ホーム下にある改札口は、振り替え輸送のための別チケットを得ようと、すでにものすごい人の群れでした。

この人たちの中には、「なんと人迷惑な!」と考える人と、「あぁ、やったんだ・・・」と自分の今の気持をダブらせている人と「私は、今生きている」と思う人と、それこそ様々な思いを抱いている方がいるのではないでしょうか。

いまだに、年間3万人を下らない自死について考え、また実行してしまう方々のことを考えると本当に心が痛みます。自死なさった方の「思いつめた心」もつらい気持ちを起こさせますが、その知らせを突然受け取る家族の衝撃、そしてそのあとにくる心の深い痛み。。。

そんな有様をイエス様はどんな気持ちで見ていらっしゃるのでしょう?

Photo

この彫刻はベトナムの小さな村の教会にあった像でした。とても珍しいと思ってカメラに収めました。

像の銘も《わたしのことを考える主》です。

写真を撮った時は、私(たち)のことを心配しているイエスの姿、という風に単純に考えていましたが、今では、この地球上で起きている数えきれない「人間の苦しみ・痛み・悩み」をご覧になっているイエス様の苦しい心が伝わってくるような珍しい像の一つなって私の心に迫るようになりました。

教皇ベネディクト16世の書かれた回勅「希望による救い」(Spe Salvi)の序文に美しい文章が載っているので引用したいと思います。

「《わたしたちは、このような希望によって救われているのです》(ロマ8・24)。このように聖パウロはローマの信徒に、またわたしたちに言います。キリスト教の信仰によれば、「あがない」、すなわち救いは、ただ与えられるだけではありません。私たちに希望、すなわち信頼することのできる希望が与えられているということです。この希望の力によって、私たちは現在に立ち向かうことができます。現在がたとえどれほど困難であっても、わたしたちはそれを生き、受け入れることができます。[…]」p.5-6

「[…]しかし、このような希望を何に対して抱くことができるのでしょうか。[…]エフェソの信徒は、キリストと出会う前は希望を持たずにいました。「この世の中で神を知らずに」いたからです。神、すなわち真の神を知るようになること。これが、希望が与えられるということです。[…]」p.9-1

引用したい個所はたくさんありますが… ご自分で手に取ってみてください。

回勅というと堅苦しい印象を受けますが、この回勅は具体的な例が豊かで読みやすく、わたしとしては珍しく、何回も読みなおしている「愛読書」の1冊になっています。

ちなみに発行所などをお知らせしておきましょう。 

   〒135-8585 江東区潮見2-10-10日本カトリック会館内

           カトリック中央協議会   (900円+税)

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