言葉はそれを使う人が生かすもの
私は、相手から聞かされるどうしようもない問題に対して、心で深くそれを受け止め、寄り添ってあげているつもりの時、口に出るのは心をこめて、心からの《がんばってね》しかないことに気がついたのです。
ことば というのは、どんな ことば でも、そこに「心」がある限り受け止めてもらえるものだということが分かりました。
イエスの言葉が一つずつしみ込むのは、それが、イエスは口先で言わず、心をこめて私たちに向けて発せられる言葉だからなのでしょう。
-がんばるしかないです。
私には、何かあると話に行ける人がいます。
私が自分の心の内を話し終えて、受け入れてもらえた (ということは聞いてもらえたという思い) を感じて、その場を去ろうとするとき、いつもいただく言葉があります。
初めてこの言葉を聞いた時、心が少し落ち込んでいる人には使わない方が良い言葉だ、と聞いていたのでちょっと反発を感じました。
「がんばって」 と言われてもねえ・・・と、とまどいも感じました。
でも、同時に不思議なことに、この時感じた反発は本当の反発ではなく、「こういう言葉は本来言ってはいけないものだ」と自分が思い込んでいたことに反発するための反発だったようです。
というのは、 「がんばってください」 と言われ、本心はちっとも嫌な感じを受けなかったからです。
近くで、その人を心から聴いたとき、最後に出る言葉はどんな励ましの言葉も色あせると思いました。
心がそこに存在している 「がんばってください」 だけが本当に新しく力を与えてくれるとわかるようになってきました。
神様の手にすべてをゆだね、その「時」をやり過ごす… 主イエス・キリストは共にいてくださる。
キリストより先に苦しんだ者はいません。
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