無縁社会の中で
いつ頃からでしょうか、日本の社会が「無縁社会」と言われはじめたのは?…
そして、「無縁社会」っていうとき、どんな意味を持つのでしょうか?
たった一晩の睡眠をとるために100万円以上の金額をホテルに支払う人がいると聞くと、私は、 「あら、私とは縁のないこと」 あるいは 「わたしとはあんまり縁のなさそうな方のようですね」 とちょっぴり皮肉っぽく言うことでしょう。
今まで「無縁」と聞いたら、「[自分とは] 関係のないこと」 と、私は、漠然と思っていたのですが、最近はもっと深刻な意味を持ってきたように感じます。
毎日の生活をちょっと振り返って、まわりを見回してみたら・・・人と面と向かってコミュニケーションをとることは少ないと感じませんか?
パソコンやケイタイからメールを送受信し、電話で話して「ハイ、オワリ」という何かしらのツールを使ってのコミュニケーションが圧倒的に多いと思いませんか?
実に、私自身その中の一人です。
買い物に行っても、個人商店にでも行かない限り、ここでもコミュニケーションは望めませんね。
もし、あったとしても、
「カード、お持ちですか?」
「はい」
「ありがとうございます」 ・・・
ここには、よくある市場のようなところで交わされる「会話」はありません。
私はベトナムの町にある市場で、
一つの品物をめぐって、 「高い」「安い」 「まけてくれ」「いやそれはできない」 「今日の○○は××ですね」 「安くしとくから買って行きな」 「これはどこの?」「△△県のだから、おいしいよ」などなど・・・よく言い合いました。
5分はたっぷりと売り手とコミュニケーションできます。
人間と人間の関係を肌で感じ、とても楽しい時(じかん)だった、と今になると懐かしいです。
それが、現代ではほとんどの国ですでに、買い物は値札通りの値段で、レジでバーコードが読み取られ、言われたとおりのお金を払う… そこに人がいるのに…無言です。
このような社会では、他の人々と交流する機会がめったにない人が増えても仕方ないでしょう。
そして、みんなさびしがっているのです。
これが「無縁社会」と言われるゆえんのようです。
これらは皆、私たち人間が作り出した先端技術のおかげですが、そのおかげで大切な出会いも失っていると思います。
私たちは、何かの機会に誰かに出会い、その人のことを友達に紹介したくなる、そうすると、私は友達を連れてその人に紹介します。
その人がすばらしい人であれば、友達はまたその友達を紹介するに違いありません。
その「環」「輪」はどんどん広がっていったらいいですね。
パソコンもケイタイも威力を発揮するかもしれませんが、実際、「出会う」ことによって初めて本当の「縁」ができ、「輪」が広がっていくのでしょう。
イエス・キリストとの出会いも同じでしょう。
「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。
また、述べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
遣わされないで、どうして述べ伝えることができよう」
(ローマの信徒への手紙10章14~15)
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