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2010年12月27日 (月)

私にもクリスマス

    あらためて 主のご降誕のお喜びを申し上げます。

皆様はどんな降誕祭を迎えられましたか。

Babyjesus7

今年は、待降節からずっと私の心にひびいていたのは、明るい愛にみちた楽しいクリスマスを待つ、というより  どちらかというと  地味目の ≪聖母マリアとともに、《すべてのことを心に思いめぐらしながら》すごす≫ ということでした。

そんなわけで、私が自分で選んだわけではないのですが、聖母ととても近く過ごせたように思います。

そして、目にするもの、耳にすることがみんな それに呼応するかのように響きあっていました。

一つの例を上げれば、 幼子イエスが馬小屋で生まれたことの意味です: 干し草と、家畜の臭いで普通だったら避けるだろう場所でしたが、宿屋に部屋がない、という神さまの思し召しで幼子イエスは家畜と同じ場所で生まれました。

でも、それには意味がありました。

だれでも訪問できる“ ということです。

この場合の 〝だれでも" は、まず最初に、神さまが最優先なさる 〝世の中で小さいものとされた人たち" です。

私は想像するのです。

ベトレヘム近郊で羊の番をしていた羊飼いたちはどんなに喜んで天使のメッセージを聞き嬉しく思ったでしょうかと・・・。

彼らは〝羊の臭いがする"といって人々から遠ざけられていたかもしれないし、彼らも遠慮して町の人たちとあまり近づかなかったかもしれません。

でも、「私たちの救い主は馬小屋で生まれた」 

「布団の上ではなく飼い葉おけに寝かされているそうだ!」 = 私たちと同じだ、近い!

羊飼いたちが、尊敬をこめながらも、いそいそと足取りも軽く救い主である幼子イエスを拝みに来たことを思い描くのは難しくないでしょう。

自分の小ささを嘆き、自分のけがれに絶望していたかもしれない羊飼いたちを代表する世界中の人々… その人々のため、その人々の中にいる私のために救い主イエスは来てくださいました。

彼らに、私に 光が照らされました。

神さまのなさり方の不思議の前に 頭を垂れ、心を沈めるだけです。

クリスマスというと、とかく「プレゼントをあげる」とか「親切をする」とか「犠牲をささげる」とか・・・ 「《私が》何かをする」に重きが置かれがちですが、今年は聖母と共に《神が私たちのためにしてくださったことを観想したように思います。

主イエスは、その存在なしに生きていけない私たちをよく知っています。それで、こんな近くに来てくださいました。

               インマヌエル

                     世を照らす光

Babyjesus1

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