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2011年4月15日 (金)

ご供養

先日のことです。いつものように聞き流していたラジオから漏れた一言・・・

ジャーナリストなのか、タレントなのか分かりませんが、「お寺」と関係のある人のようでした。その人が被災地をたずねて目にした情景を語っていたのです。

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何万とも言われている今回の災害による死者を弔うのに、自衛隊の人たちとか消防の人たちだけに見守られて葬られていくのを見て本当に気の毒に思った。誰も、今、葬られていく死者のために祈ってくれる人 (彼は僧侶と言ってましたが) がそばにいない状況はたまらなかった、と言ってました。

「供養」ということばが浮かんできました。

サンスクリット語のブージャーあるいはブージャナーの訳で、仏、菩薩、諸天などに供物をまごころから捧げることだそうで、日本の民間信仰では死者、祖先に対する追善供養を言うことが多く、これから派生して、仏教と関係なく死者への対応という意味で広く《供養》とよぶことがあるんだそうです。(ウィキペディアより)

ラジオで聞いたこの人のことばにまったく同感した私はその翌日から、毎日のミサを災害で亡くなられた方々の霊魂のためにお捧げすることにしました。

天の御父がその手を大きく開いて彼らを迎えてくださいますように。

それからしばらく経って、またラジオから流れてきたこと・・・

被災地の、ある小学校では -そこでは生徒の半分ぐらいが亡くなったそうですが・・・- お寺のお坊さんが学校の校庭で校長先生をはじめ先生方、残った生徒たち、親が集まって合同慰霊祭を行ったそうです。

そのあとで子供を亡くした一人の母親の声が聞こえました。

「お経をあげてもらって救われました。・・・すこし ほっとしました・・・」と。

この慰霊祭は、お寺のお坊さんから小学校に提案したことなのだそうですが、すばらしいことだと思いました。

カトリックでは何かこのような形で動いてないのかなぁ、と思って現地でボランティアをしてきた人に聞きましたが、「少ないと思う。でも、時々呼ばれているようだ」ということでした。

まだ確認できてないほどの数の死者が出た今回の災害。突然の死に見舞われた方々です。

私は被災地へ行ってボランティアすることはできません。それで、亡くなった方々のご冥福を祈るために毎日のミサとロザリオを捧げることにしました。これは、亡くなった方々のためだけでなく、残されたご家族のためでもあります。

私がよく訪問する二つのブログがあります。そこに慰められる記事があったのでご紹介します。

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小名浜教会を訪ねた後、小名浜港に足を延ばした。(・・・)わたしは突堤の先端まで行って、カルカッタから預かってきた「不思議のメダイ」を、祈りながら海に投げ入れた。わたしが帰国するとき、マザー・テレサの2人目のシスターで今年82歳になったSr.ガートルードが、津波にのまれて亡くなった人たちの魂の安らぎのために、これを東北の海に投げ込みなさいと言って「不思議のメダイ」を一掴みわたしに託したのだ。聖母の取り成しによって、津波の恐怖と痛みの中で亡くなった人たちの魂が天国で癒されるようにと祈らずにいられなかった。

(片柳神父のブログ)

http://d.hatena.ne.jp/hiroshisj/

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一ヶ月目にあたるこの日、新潟教会で午前中に、月曜会のメンバーと定例の集まりを開き、被災された方々の一日も早い復興と、亡くなられた方々の永遠の安息を、ミサの中で、そしてそのあとのロザリオの祈りの中で、お祈りさせていただきました。(司教の日記)http://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/diary/

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「お経をあげてもらって救われました。すこしほっとしました」

このお母さんのことばが耳の奥でこだまし、そして心に響いてわたしを動かしています。

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