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2012年3月13日 (火)

『わたしだ。恐れることはない。』(マルコ6・50)

3月10日、サレジオ会の武井アントニオ神父様の司祭叙階式で、「よろこび」という小冊子をいただきました。

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わたしたちにとって「武井神父様」というのはちょっと慣れていません。いつもThay Thuy (トゥイ神学生)と呼んでいたからです。

これからも、ベトナム人共同体の中ではベトナムの名前で呼び親しまれていくのではないかと思いますが、頂いた小冊子の中では日本の国籍を取った神父様の名前;武井神父さまととしてでいろいろなことが紹介されています。

「新司祭の声」というページに書かれている武井神父様自身のことばの一部をここに紹介したいと思います。

 

『今まで召し出しの道を歩んできた自分はまるで荒れ狂う波の上にいた舟のような気がします。(マルコ4・35-41)。海の上の嵐で揺れ動いたことが何回もありました。しかし、イエス・キリストは眠ってはいなかったのです。私を見捨ててはいなかったのです。

 

 

自分の人生の中にどんなことがあっても共におられ、導いてくださる神を深く感じています。何回も神に対するわがままである自分の醜さにもかかわらず、呼んでくださったのです。

 

神の愛、そのものだと確信しています。

 

神の愛に気づいた自分は自分が新しいものに変えられたと感じています。

 

恐れることより安心感を持つようになりました。

 

こうして、私は考えました。主イエス・キリストから愛されていることが信じられなくなるとき、私たちは何においても恐怖を感じているのです。

 

 

現代の人にとっては震災などの恐れだけではありません。人間、組織、社会に対する恐れもあります。相手にしてもらえない人たち、愛情が満たされない人たち、無視されている人たち、希望のない未来に向かっていると思っている人がおられるかもしれません。

 

 

しかし、自分という存在が自分ひとりだけではなく、主キリストはいつも傍らにおられ、私たちを大事にしてくださいます。

 

そして、いつも共に歩んでいおられることを信じるべきと思います。

 

私たちの人生において、どんな状況があっても、恐れることがない、共に歩み、導いてくださる主キリストがおられます。

 

 

「安心しなさい。私だ。恐れることはない。とのことばを信じながら、私は司祭叙階の記念カードをつくりました。

 

このおことばを念頭において、これからの司祭生活を送る自分はいつも喜んで主をたたえ、創立者聖ドン・ボスコのように人々のために仕え、特に青少年のために生きる神父になりたいと思います。

 

扶助者聖マリアと聖人たちの取り次ぎがあれば、この務めを誠実に生きることができると信じています。」(『よろこび』p.10)

Cha Thuy 武井神父様、司祭叙階おめでとうございます。

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コメント

新司祭の記事を読ませてもらって、ありがとうございました。
とても良かったです。今後とも武井新司祭のために心を合わせて、祈りたいと思います。

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