復活祭 - むなしさの向こうに
アレルヤ、アレルヤ!
身動きできないほど人でいっぱいになった大聖堂に、40日ぶりに(四旬節が終わったので)響き渡った今朝のミサでの「アレルヤ」でした。
まだ冬の身支度から解放されない冷気を感じる日曜日でしたが、すっかり花を開いてくれた桜の木々が主の復活の象徴のように私たちを包みこんでくれていました。
今年は、何年振りかで共同体での「聖なる三日間」を過ごしました。
慣れない、特に年一回しか行われない「聖週間の典礼」の準備は気が抜けなくて少し緊張しましたが、みんなと協力し合い、時間の都合をつけあって聖歌の練習をしたりと、これまた、いつもと違った雰囲気で私にとってはとても新鮮で、また、心を和ませるものがありました。
三日間とも、復活徹夜際に洗礼を受けるKさんとご一緒だったことも、当事者のKさんだけでなく、私たちにとっても復活祭を迎える良い準備になったように思います。
それにつけても、昨年の3月11日以来今まで、地震、大津波、原発事故、水害、豪雪とほとんど息つく暇もなく苦難・困難に見舞われました。
そのたびに、そして今も、私たちは自分たちのできる支援を行ってきたと思います。でも、十分ではありません。
去る2月に、原子力資料情報室の澤井正子氏の「3・11福島原発以後…日本社会の進むべき道を考える」という講演会を聴きに行きました。
終わって、会場を後にし、道を歩きながら口を衝いて出ていた言葉は、「主よ、哀れな人間である私たちを憐れんでください。」でした。
心は、何か空っぽな感じでいっぱいでした。
何もできない、という「無力感」 あるいは 「むなしさ」というのでしょうか???
でも、この「むなしさ」の向こうに主がおられることは見えていました。
主はもっと「むなしさ」を感じられていたのではないでしょうか。
主ご自身、ご自分の生活を通して自己犠牲と無条件の愛の模範を与えてこられました。病気、悪霊、死に対しても勝利をもたらしてきましたが、目の前を見れば、「神の地上の支配は依然として遠い夢」のように見えます。
最愛の弟子たち、一番信頼していた弟子たちからも裏切られる羽目に陥っています。
私も、自分の生活に目を転じれば、大なり小なり、失望したり、人間関係のまずさに苦労したり、自分の弱さを苦みと痛みをもって受け入れなければならないことに気が付きます。そして、この苦しみ、痛みは誰のものとも比べられないほど大きいと思うぐらいになることがあります。
でも、さいわいなことに、受難のイエスに目を向けるとき、私の『失望』は、色褪せるのを見ます。
主は、「わたしは、渇く」とおっしゃっています。
誰に?
私たちに、 そして、 おん父に。
イエスは完全な信頼のうちにおん父に寄りかかっていらっしゃいます。
今のこの世界の状況を見て、主は『すべてを捨てて』霊も体もカラカラに渇ききり、みじめな十字架の死を遂げられました。私のために、私たちのために、この世界のために…
しかし、今日、主は、死の闇からよみがえりました。
主よ、十字架上のあなたの勝利を感謝します。
復活されたあなたへの信頼と希望で私を満たしてください。
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