待降節に入って
私の机の上、私の目の前には一年中、3センチほどの小さい素焼きの赤ちゃんイエス様が寝ていて、隣には十字架の上から憐れみと慈しみのこもったやさしい目で私を見ているイエス様の絵があります。
この二つのイエス様が私の生活を支えてくれています。
待降節に入ると、私たちはけっこう頻繁に「主よ、来てください」と祈り、歌います。この言葉を口にするとき、私たちはどんな「主」が来てくださるのを期待しているのでしょうか。
馬小屋にすやすや寝ている愛らしい幼子としてだけでなく、神の正義の支配を確立するために来られる主を求めているはずです。
でも、言葉はたびたび、くちびるの上を上滑りしていくようです。
目を開いていただきましょう。
待降節の間、私の眼が開かれていれば、イエスは飼い葉おけに寝かされている赤ん坊としてだけではなく、愛と平和の王国を治めておられる栄光の座についておられる王として見えてくるでしょう。
ご降誕の馬小屋の前で、ただ一人、心穏やかに神様の愛を黙想して留まっていることはできません。
イエス・キリストは神の永遠の言葉、ロゴスであり、肉となって私たちの間に住まわれました。今、飼い葉おけに寝ている赤ん坊の誕生を通して、神は、全世界に告げられました。
≪わたしは何も出し惜しみしない。わが子さえ惜しまない。≫と。
神の正義の支配を確立するために来られる主の愛を黙想するなら、ここに留まっていることはできません。
その愛に応えなければなりません。
しかし、問題はその手段です。
この世に正義と平和をもたらしなさい、という神の呼びかけに応えるのです。
イエスが実行される社会正義の課題を、私たちは自分の課題として受け取らなければならないのです。
教皇フランシスコもおっしゃっています:≪貧しい人と社会正義から免れている人は一人もいない≫と。(「福音の喜び」 )
そして、今、世界中で数えきれない数の人々がいろいろ理由で苦しんでいます。教皇は、≪神は無知な私たち人類に創造力を授けた。人類の文明は、有益に使える原子力にまで至った。しかし人類はそれを、人類を殺すために使った≫と、最近の記者会見で述べていらっしゃいます。(朝日新聞 12月1日夕刊)
身近なところから見てみたいと思います。
家族、職場、共同体、大学、属しているグループ、隣近所… 私は一人ひとり、特に見落とされがちな人々に敬意をもって接しているでしょうか。。。
ホームレスの人や、病弱の人、胎児、他にも弱い立場にある人たちの状況を改善する社会について情報を得て動き、働いているでしょうか。。。
赤面することのほうが多いわたしです。
しかしながら、私たちはキリスト者として、この王がすでに来られたと信じています。ですから待降節は、貧しく弱い人たちに対するイエスの配慮を、私たちがどれほど分かち合えるかを見る良い機会となります。
これらの見捨てられた人々や、社会正義のために立ち上がると、不安、不便、怖いことさえあるかもしれません。
パキスタンのマララさんの例があるし、最近のメキシコ南部で起きた学生拉致殺害事件のように…
しかし、待降節の間、私たちの目が開かれていれば、愛と平和の王国を治めておられるイエスが見えてくるでしょう。この素晴らしい視力は私たちの信仰を増し、自分のいのちをもっとイエスに捧げたくなるのではないかと思います。
おん父である神の計画をより深く受け入れずにはいられなくなります。
主、イエスよ、来てください。
あなたの御国を建てあげ、
あなたの正義のために働く知恵と勇気を
私たちにお与えください。
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クリスマスおめでとうございます。
私は思春期に讃美歌にひかれました。それからクリスマスのどんちゃん騒ぎでなく、クリスマスの本当の意味を知りたくて、キリスト教に近づきました。それから長い月日が・・・ 忘れていた待降節、あなたの記事を読んで、立ち止り、考え、思い、クリスマスに向かって新しく歩き出しました。 貧しい方、弱い方、苦しんでいる方のために、祈ることしかできませんが、祈ります、必ず。
投稿: ns | 2014年12月24日 (水) 11時19分