信頼ってこういうもの?
昨日、ほんとに久しぶりに外出しました。
この時私が使う「外出」は、普段の買い物や病院へ行ったりするために「家を出る」ことではなく、そこに隠れている小さな楽しみを見つけ、追いかけるために「家を出る」ことです。
新宿から京王線の特急で30分も行くと、やはり景観が変わりました。駅まで迎えに来てくれた友人の車の窓から見える山々は、ビルの狭間に生活している私には新鮮だったし、美しいものでした。
一年分の積もる話をして、お互いに目に見えないものを確認しあって「また、会いましょうね」と別れて、また京王線の乗客になりました。
何分ぐらい経ってからか・・・乗客がぐっと減ってガラガラの車内の中。2,3歳の男の子が出入口の隅にしゃがみ込んで寝ている姿が目に入りました。小さな右手を精一杯のばして手すりをつかんでいるのですが、睡魔が勝つと手はかくっと落ちてしまい、またつかみ直し。それでもよほど眠かったのでしょう、頭を垂れて寝入ってしまったときもありました。斜め前から見ていた私は気が気ではありませんでした。
「もし、この男の子の側のドアが開いたら…」
そう~っと周りを見ましたが、この子の親らしい姿がありませんでした。というのは、みんなスマホに夢中な大人ばかりだったのです。
この子を「見守っている」という風に見える大人はいませんでした。
とうとう、その時が来ました。
男の子の側のドアが開いたのです。
冷たい風が入ってきて、男の子も目が覚めたようです。そして、自分のすぐわきがホームであることがわかって恐くなったようです。ちょっと、身体が傾けばホームに転がり出そうでした。
ドアが閉まるのとほとんど同時に男の子は立ち上がり、小走りに向かい側の席に行きました。そこには、相変わらずスマホから目を離していない一人の大人が座っていました。
男の子がその大人のひざに手をかけた時だけ、顔を上げて男の子の姿を確認したような風でした。
私は、この男の子の姿・態度に心打たれました。
「かわいらしい」 周りに頓着なく、自分のやりたいことをして、でも、何かあったら帰れる場所・人を知っている。
スマホから目を上げない大人であっても、自分の親であることを知っているから、その目の届く範囲で自分の気持ちの良いことをした。。。そして、怖くなったので親の許へ戻っていった。
何ということのない数分の情景でしたが、私たちと神さまの関係もこんなものなんじゃないかなあ、と考えさせられ、ほのぼのと心が温かくなりました。
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6月21日の、嵐を静めるイエス様の福音を下読みしながら、「信頼ってこういうもの」を思い出し、もう一度読ませていただきました。嵐の船の中であわてふためき、なんで助けてくれないの、とイエス様をなじる大人たち・・・
電車の中のこの男の子だったら、どうしたでしょう。 きっとよろけながら、イエス様のところにいって、その腕の中にもぐりこみ、一緒に眠ったのかもしれないと想像しています。
イエスさまは「幼子のようにならなければ・・・・」とおっしゃいました。 主に絶対の信頼をおくこと、罪深い身には至難の業ですが、少しづつ、祈りつつ・・・
気づきをありがとうございます。
投稿: richi | 2015年6月20日 (土) 14時49分