「憐れみ」と「慈しみ」
復活節第2主日は、「神のいつくしみの主日」とも言われていますが、≪慈しみじゃないんだよ≫とある神父様に言われてあらためて考えさせられたことがあります。
≪慈しみ≫は慈しむことですが、慈しむということは明鏡国語辞典によると「弱い立場のものを、愛情をもって大切にする」とあります。そして、≪憐れみ≫は「気の毒だ、かわいそうだと思う心」で、憐れむということは「気の毒だ、かわいそうだと思う。憐憫の情を抱く。不憫に思う」とあります。
この神父様によると、日本の典礼で使われている「いつくしみ」は語源のラテン語が持つ意味の深さを弱めてしまって残念だとおっしゃっていました。
「憐れむ」というのは、哀れを催す、不幸で、貧相な、また貧弱で、無価値なくだらないろくでなしで困ったやつに対して、「気の毒だ、かわいそうにと憐憫の情を抱き、不憫に思ってくださる神の心。(上から下への方向)
それに対して、「慈しむ」というのは、上にあげたような弱い立場のものを愛情をもって大切にしてくださる神の心。(水平の方向)
私たちは、神に慈しんでいただくというより、もっともっと憐れんでいただかなければならない存在であることを認識しなければならないんだと、私も、神父様の話を聞きながら実感しました。
この哀れなわたし、ろくでもないわたし、罪深いわたし、こんなわたしには、たしかに慈しみよりも神の憐れみが必要です。
『徴税人は遠くに立って、胸を打ちながら言った。「神さま、罪びとの私を憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリザイ派の人ではない。』(ルカ18/13)
神さま、私を憐れんでください。
神様と私たちの関係は、まず、この憐みの心をしっかりと受け止めるところから始まるんじゃないかなと思いました。
そして、「憐れみ」に抱かれる感謝と喜びを。
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初めて神のいつくしみの主日にその固有の礼拝にあずかりました。でも何かぴんとこなくて、異例の速さで世界に広まった信心というお話に戸惑いを感じました。このブログを読み、「神の憐み」なら、わかる気がしました。しかしこの信心では、啓示によって「神のいつくしみを礼拝し、そのあわれみを求める人は、自ら行いや祈りによっていつくしみを実行することが、イエスによって強調されている」と言っています。「憐み」が上から下へなら、隣人への憐みは、言葉としては少し差別的なニュアンスかもしれません。たぶんこの信心は、神と人、人と人の両方向を包括しながら、この世界を平和へと導こうとしているのかもしれません。イエスは私たちと同じ地平に立ってくださった方、今も水平の方向性をもって共にいてくださる方として「憐みといつくしみの神」なのだと思いたいです。
ブログを読ませていただいてよかったです。ありがとうございます。
投稿: richi | 2015年4月15日 (水) 15時26分