いのち
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15・13) と、イエスはおっしゃり続ける。
わたしにとっても、このみ言葉は子どもの時から聞いていて、とても心惹かれるみことばだったけど、1996年のミルポア(南フランス)のカテドラルでのミサで聞こえた主の御声は消えない。
わたしの命:この一秒、一分、一時間、一日・・・を友のために捧げる。私は自分で生きている。でも、私のイメージとしては「生きている」というのはそこに、例えばろうそくがあって、そのろうそくに火が灯っている。
私(ろうそく)は炎をあげてまわりを照らし、あたためている。ろうそくはろうそくのために炎を燃やさない。
炎のほのかな光はまわりを照らす。もしかしたら、ほんの少しの暖を与えてくれるかもしれない。そして、炎によって溶けていく蝋は、小さくなり、ついに消えていく。
このろうそくのイメージが、私が「友のために」の「命」と重なる。
朝起きて、十字を切り、主に今日一日をゆだねお捧げする。
その時が、もしかしたら、マッチを擦ってろうそくに火をつけるということかな?
一日中、静かにゆらゆらと燃えてあたりを照らし、あたためていることもあれば、ふっと通り過ぎる風で炎が消えそうになることもある。 恐い! と一瞬思う。
そして、一日が終わり、感謝し、夜の間の私の霊を御父にゆだねる。
いろいろなことを、黙って、何事もなかったように受け流して生きていけるといいな。
痛いとき、だるいとき、疲れているとき、・・・・こういう時の炎の形ってどんなんだろう。
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