8年前
facebookの方で引用した8年前に、日経新聞に掲載された姫野カオルコ氏の「聖ヴェロニカの花に祈る」の全文を掲載します。
春はたくさんの花が咲く。
桜が咲きほこるより少し先に、梅が春をまえぶれし、沈丁花が香り、アネモネがおもちゃのような花びらをひろげる。
日本の花の色は白がもっとも多く青は2割だそうだ。
学名をヴェロニカ・ペルシカという、ごく小さな青い花がある。同系統の花がいくつかあり、みなヴェロニカがつく。
その昔、十字架を背負いカルヴァリ丘を歩かれているイエス様を見て思わずかけより、 額の汗をぬぐってさしあげたという婦人の名がついたゴマノハグサ科のこの小さな青い花は、しかし見る人には、もっとのんきな安らかさを与える。
「春の小人がちょこまかちょこまかとやって来たよ」
といったような。
じっさいこの花にはオオイヌノフグリというユーモラスな和名がついている。
北風がようやく温んだころ、おもてに出ると鼻孔に、あきらかに冬とは違う匂いが流れてくることがある。そんなころに、軒先やあぜ道に、オオイヌノフグリが咲いているのを見つける。
じつに春は一年でもっとも美しい季節である。
月日をかけて、肌身でそう感じることができるようになった。
古今東西、春をめでる和歌や詩はあまたある。だがそれらを詠んだ者、綴った者は、そしてそれらに心をよせた者は、みなと言っていいほど年行きの者ではなかろうか。
子どもや若者は春に感じ入らない。
春に花が咲くのはあたりまえだと感じる。然るべし。自分自身がすっぽりと春の中にいるのである。
春が自分の内から去ってはじめて、人は感じ入ることができる。いかに春が美しいかを。
幼きことをよしとするようになったわが国では、春の中にいる者は、年とる日を恐れる。まだ春の中にいるふりをしてじたばたする。
さようにもがかずともよい。大丈夫だよ。
そう悪いものではないのだ、春が過ぎるということは。じつにうまいものなのだ、春に感じ入るときというのは。
桜の木の枝を這う毛虫のたくましさ。くだんのオオイヌノフグリの葉かげに糞をしたイヌの平和。
たとえば、かかる小さなもの、小さなことに感じ入ることができるから、年とった者の日々は、そこらじゅうにたのしさがあるのである。
「ああ、春がまた来た」
そう感じられる幸いは、春を過ごし夏を過ごして来た長々の月日が贈ってくれるものである。
「ああ、春がまた来た」
そうことほぎて見る、日常の、なんのへんてつもないもの。光の中の屋根。雨の中の田畑。曇った道端ですれちがう人の顔。みな愛しく懐かしい。
「春がまた来た」
命あってこそ、春は再訪する。
命ある人が、春を見る。
たいせつなものを、すべて波に呑まれてしまった方々に、どうか、また周りの人たちとほほえみあう日が訪れますように。
ヴェロニカの花の花言葉は、「信頼」「忠実」「有用」。日本のそこかしこにある、この元気な青い花に心から祈りを託します。
(以上)
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