日記・コラム・つぶやき

2021年5月26日 (水)

風のいたずら

先週あたりは天候が定まらず、雨・風の荒れた日が多かったように思います。歩行車を使っている私は雨が降っては外出ができません。そのため、何度か歯医者さんの約束をキャンセルしました。そんなある日のことです。その日は雨は降ってませんでしたが、大風の吹き荒れていた日でした。

何気なく部屋から外を眺めたら、木々の枝が大風に弄ばれてあっちを向いたり、こっちを向いたり。隣の木も同じような動きをしているのを見ていて、ふと、「あら、木たちは楽しそうに何をおしゃべりしているのかしら?」と思いました。大笑いしているようにも見えます。何しろ木たちがくっついたり離れたり、太い枝が笑っているかと思えば、枝先の葉っぱがきらきら光りながら「そうだ、そうだ」というようにまるで本当に楽しそうに笑っているようなのです。

しばらくたって、河口湖に住んでいるM子さんに電話をした時、驚きました。M子さんが、その日の大風の酷さのために、自分の小さな畑に被った被害や、老木の枝が折れて歩行中身辺に落下する危険について話してくれた後に、「それにしても、木たちはなんと楽しそうなんでしょう!」と、私と全く同じことを感じてそれを口にしたのです。そこでまた、話に花が咲いたのは当然ですが…

お昼過ぎ、空を見上げれば、いつ雨が落ちてきてもおかしくない様相… でも、雨は降ってないのだから、出かけるなら今だ。用心のためにレインコートを羽織り、歩行車のバッテリーの入っている箱にはぬれても大丈夫なようにプラスチックの袋をかぶせて、やっとのことで歯医者さんに行きました。治療が終わってビルの外へ出たら、雨がぽつぽつと降り始めていました。風は相変わらず強かったので傘をさしている人は途中で傘を閉じなければならないほどでした。でも、私は傘もないし、レインコートのフードをかぶって、結構楽に歩行車で歩いていました。と、その時、突然バッテリーにかぶせてあったプラスチックの袋がめくれて飛んで行ってしまったのです。あっという間の出来事でした。袋は車道の真ん中で、私をからかうように、ひと遊びして向かい側の歩道に飛ばされていきました。「ま、いいや」とそのまま歩いていたら、また一陣の風が吹いたと思ったら、その袋は車道を越えてこちら側の歩道に飛ばされてきました。そして、何と歩行車の前輪のところで車輪に絡むように止まったのです。「ただいま」とでも言うように。私は、思わず笑ってしまいました。プラスチックの袋が生き物のように見えて、思わず「かわいい!」とつぶやきながら袋を拾い上げました。

風のいたずらですね。

    ”風がどこから吹いてくるのか ひとは誰も知らない  愛を呼びさまし 心をうるおし いつの間にかわたしの中を

    吹き抜けてゆく  それは気高いキリストの思い どこへ風は吹いてゆくのか 誰も 知らない”(典礼聖歌386)

 

2020年12月 8日 (火)

「いいね」と「いいな」

Facebookを見ていると、あらゆるところに「いいね」ボタンがあります。もし、私がその記事に賛同し、「いいな」と思ったら「いいね」ボタンを押すのです。

ところで、ある日、散歩をしていた時のことです。神経の病気を背負ってしまった私は歩くのがとても遅くなっているので、歩いていても後から来る人たちに簡単に追い越されます。べつに追い越していった人たちをうらやんでいませんが、歩きながら自然にリズムを取るのが習慣になっていた私は、「いいな、いいね。いいね、いいな。」などと勝手に節とリズムをつけて口ずさんでいました。その時、ふと考えたのです。「いいね」と「いいな」って何が違うんだろう?って。

 

色々別な解釈があるかも知れませんが、私が散歩中に考えたことは、「いいね」は相手、あるいはそのことなどに賛同している時感じるもの。そして、「いいな」は似ているのですが深いところでちょっと違うな、と思いました。賛同し、認めているかもしれませんが、何か否定的な感情が含まれている気がします。たとえば、「うらやましい」のような。

 

歩みの遅い私が、追い越していった人に対してこの二つの感情を言うことができます:「いいね」- 良かったね早く歩けて; おめでとう; 続けてがんばってね;とか・・・ 「いいな」- 早く歩けていいな、私も早く歩きたいよ;みたいな。

 

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2019年3月10日 (日)

8年前  

facebookの方で引用した8年前に、日経新聞に掲載された姫野カオルコ氏の「聖ヴェロニカの花に祈る」の全文を掲載します。

春はたくさんの花が咲く。
桜が咲きほこるより少し先に、梅が春をまえぶれし、沈丁花が香り、アネモネがおもちゃのような花びらをひろげる。
日本の花の色は白がもっとも多く青は2割だそうだ。
学名をヴェロニカ・ペルシカという、ごく小さな青い花がある。同系統の花がいくつかあり、みなヴェロニカがつく。
その昔、十字架を背負いカルヴァリ丘を歩かれているイエス様を見て思わずかけより、 額の汗をぬぐってさしあげたという婦人の名がついたゴマノハグサ科のこの小さな青い花は、しかし見る人には、もっとのんきな安らかさを与える。
「春の小人がちょこまかちょこまかとやって来たよ」
といったような。
じっさいこの花にはオオイヌノフグリというユーモラスな和名がついている。
北風がようやく温んだころ、おもてに出ると鼻孔に、あきらかに冬とは違う匂いが流れてくることがある。そんなころに、軒先やあぜ道に、オオイヌノフグリが咲いているのを見つける。
じつに春は一年でもっとも美しい季節である。
月日をかけて、肌身でそう感じることができるようになった。
古今東西、春をめでる和歌や詩はあまたある。だがそれらを詠んだ者、綴った者は、そしてそれらに心をよせた者は、みなと言っていいほど年行きの者ではなかろうか。
子どもや若者は春に感じ入らない。
春に花が咲くのはあたりまえだと感じる。然るべし。自分自身がすっぽりと春の中にいるのである。
春が自分の内から去ってはじめて、人は感じ入ることができる。いかに春が美しいかを。
幼きことをよしとするようになったわが国では、春の中にいる者は、年とる日を恐れる。まだ春の中にいるふりをしてじたばたする。
さようにもがかずともよい。大丈夫だよ。
そう悪いものではないのだ、春が過ぎるということは。じつにうまいものなのだ、春に感じ入るときというのは。
桜の木の枝を這う毛虫のたくましさ。くだんのオオイヌノフグリの葉かげに糞をしたイヌの平和。
たとえば、かかる小さなもの、小さなことに感じ入ることができるから、年とった者の日々は、そこらじゅうにたのしさがあるのである。
「ああ、春がまた来た」
そう感じられる幸いは、春を過ごし夏を過ごして来た長々の月日が贈ってくれるものである。
「ああ、春がまた来た」
そうことほぎて見る、日常の、なんのへんてつもないもの。光の中の屋根。雨の中の田畑。曇った道端ですれちがう人の顔。みな愛しく懐かしい。
「春がまた来た」
命あってこそ、春は再訪する。
命ある人が、春を見る。
たいせつなものを、すべて波に呑まれてしまった方々に、どうか、また周りの人たちとほほえみあう日が訪れますように。
ヴェロニカの花の花言葉は、「信頼」「忠実」「有用」。日本のそこかしこにある、この元気な青い花に心から祈りを託します。
                     (以上)

2017年6月 6日 (火)

どうして?

どうして、こんなに日にちの過ぎるのが早いのかな?

その日、その日を時計の針の上に乗っかっているみたい
時計の針は 無常に チクタク チクタク と時を刻みながら動いている

そして、わたしも チクタク チクタク と動いているのか。。。

朝、目を覚まして 「あ、主よ。今日も一日を与えてくださってありがとうございます。」と祈り、その日を主にお捧げします。

夜、寝る前には、「主よ、今日も一日過ごさせてくださってありがとうございます。」と感謝し、夜の眠りを主にお捧げします。

B_heart ミッションの地から休みに帰ってきた姉妹、仕事で立ち寄ったフランスからの若い姉妹、それぞれを受け入れて新しい空気が共同体に吹き込まれました。

また、もうじき若い会員姉妹が短期ミッションで日本に来ます。

あぁ、やっぱり・・・チクタク チクタク 毎日動いてるんですね。

2017年2月 8日 (水)

いのち

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15・13)   と、イエスはおっしゃり続ける。

わたしにとっても、このみ言葉は子どもの時から聞いていて、とても心惹かれるみことばだったけど、1996年のミルポア(南フランス)のカテドラルでのミサで聞こえた主の御声は消えない。

わたしの命:この一秒、一分、一時間、一日・・・を友のために捧げる。私は自分で生きている。でも、私のイメージとしては「生きている」というのはそこに、例えばろうそくがあって、そのろうそくに火が灯っている。Candles84_n

私(ろうそく)は炎をあげてまわりを照らし、あたためている。ろうそくはろうそくのために炎を燃やさない。

炎のほのかな光はまわりを照らす。もしかしたら、ほんの少しの暖を与えてくれるかもしれない。そして、炎によって溶けていく蝋は、小さくなり、ついに消えていく。

このろうそくのイメージが、私が「友のために」の「命」と重なる。

朝起きて、十字を切り、主に今日一日をゆだねお捧げする。

その時が、もしかしたら、マッチを擦ってろうそくに火をつけるということかな?

一日中、静かにゆらゆらと燃えてあたりを照らし、あたためていることもあれば、ふっと通り過ぎる風で炎が消えそうになることもある。    恐い! と一瞬思う。

そして、一日が終わり、感謝し、夜の間の私の霊を御父にゆだねる。

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いろいろなことを、黙って、何事もなかったように受け流して生きていけるといいな。

痛いとき、だるいとき、疲れているとき、・・・・こういう時の炎の形ってどんなんだろう。

主よ、今日も共にいてください。
B_heart

2016年12月12日 (月)

Facebook の効用

ホームページ、ブログ、その他パソコン上のいろいろなニュースを見ながら、その人たちとつながることに批判的な声を聞くことがあります。

時間があって、一見、この忙しい時に何やってるの? といった批判的な目を感じることもあります。

でも、私はそういう態度、目に負けず、人々とつながっています。

特に、気になる人たちと。

私がブログを始めたり、Facebookを始めたのもそこに目的があったからです。

思ってもいなかったニュースをもらうこともあり、楽しいことや嬉しいこともあります。でも、私がこのページ(特にFacebook)で 「良かったな」と思う点は リアルタイムで相手とつながることができること、また、最近ではビデオ電話につなげて相手と顔を合わせて話しができることです。

少し前までは、「寂しい、寂しい、」「仕事がまだ見つからない」「ビザがもうじき切れてしまう」など、悲痛なやり取りで 私もやりきれない思いをすることがありましたが、そんな時にも、彼らの周りにいる友人たちがちゃんと支えていることがわかったり、楽しそうな写真を載せてくれたり、お互いに遠く離れていても近くに感じることができるのは「ものすごいこと」だと思います。


昨晩も、「最近は一人でいることに耐えられないほどつらいことがある」と書いていた「若い友人Aさん」がいました。そうしたらすぐに、Aさんの友人が、「誰か知り合いとか友人に電話かけてみたら?」というようなアドバイスをあげていて、「ああ、Aさんも良い友人がいるな」
と安心しながらも、久しぶりだったので、私も返事をしながら顔を見ながら話をすることができました。

とっても嬉しそうでした。

私にできることは、大きなことではありません。でも、いっとき 相手の心に「喜び」の明かりを灯して上げられれば・・・ 私にとってもこんなうれしいことはありません。

Aさん、よい夢を見て寝たかな?Jesus_and_baby14_n

2016年12月10日 (土)

杖 

ブログの更新がすっかり「穴」があいたように遅れています。
11月は、まるでなかったかのように私(たち)の前を通り過ぎていきました。

でも、決まったように時間は過ぎていきます。

B_music

しばらく前から、疲れると「杖」に頼りたくなる私を感じていました。雨上がりの日、不要になった傘を杖代わりにして歩いた時の『楽さ』加減。すっかり味を占めてしまいました。

リハビリに来てくださる先生も、「安全のためにぜひ杖を使ってください」と言われるし、挙句の果てに主治医の先生からも、「折りたたみのものがあるから、ぜひ持ち歩いて必要な時にはどんどん使ってください。私たちが一番恐れているのは、あなたが転倒することですから」と言われ、デパートの介護用品売り場にたくさんの品ぞろえがあることも教えていただきました。

でも、前述のように、忙しくて出かけられないまま… 親切な友人が先に売り場へ行って写真を撮ってきてくれました。

 

Image005_2 たくさんの種類があるんですね。色とか好みがわかれば買ってきてくださる、と言われましたが、こればかりは、やはり洋服とか靴のように身に着けるものなので、直接自分の目で「色」「その他」を見てみたいと思っていました。

今日、やっと仕事にきりが付いたので、夕方デパートに行ってきました。

「これかなあ」と思うもの2本に目をつけて、今日は一応帰宅。

どっちにしようかな?

2016年10月 1日 (土)

人が幸せを感じるとき、そして、本当に幸せになるとき

最近、新聞紙上か、雑誌か、あるいは何かの本かはっきり覚えていませんが、私にとって興味深いことが書いてあるのを見つけました。

すぐ切り抜くか、コピーしておけばよかったのですが…今になってそのことについて書きたくなって。 はっきりした根拠というか証拠がないので申し訳ないと思いますが、自分のためです。

どんなことが書いてあったかというと、人は誰でも幸せになりたいという願いを持っていること。しかし、皮肉なことに、人は決して自分が望んでいる幸せのレベルには達することはないということ。いわゆる「欲」には限りがないのですね。

でも、幸いなことに、心の持ち方ひとつで「幸せ」を自分の中に作り出すことができるというのです。

例えば、人に親切にしてみる、人に感謝のきもちをあらわしてみるなど。これらを実際に「思う」だけでなく実行することが大切なのです。

昨日、私は電車の中で席を譲ってもらいました。

席を譲った人は、わざわざ私のために席を立って、私に「どうぞ」と声をかけてくれたのです。その時、その人はきっと「幸せ」を体験したと思います。そして、私も素直に「ありがとうございます」と言って座らせてもらいました。そのとき、もちろん疲れていた私は座れた喜びでとても幸せを感じました!

この時、ふと、聖書の言葉が心に浮かんできました。

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」(あなた方の天の父は良いものをくださるに違いない)(マタイ7/12参照)

ここで言われている、天の父が下さる「よいもの」こそ「幸せ」だと思ったのです。

2016年4月 6日 (水)

その日暮らしの糧

散歩の途中で、ふと、歩道脇の植え込みに何メートルかおきに野球の選手の顔が印刷してあるのぼりが立っているのに気がつきました。 大きな字で何か書いてあるのですが私が歩いていく方向は裏側になっていて読めませんでした。

立ち止まって振り向いて書いてある言葉を読んだら   Dscn5866

「去年の自分を超えろ!」 と、太く力強い字で書いてありました。

選手たち、また若い人たちには大いに励みになる言葉でしょう。

:*:*:*:*:          :*:*:*:*

私は散歩を続けながら考えました。

「今年の私を保て!」 (そして、痛くて重い足を引きずるように歩いている自分をみて、無理よね、と考え直し)

「せめて、今の自分を明日まで!」 と目標を近づけました。

:*:*:*:*          :*:*:*:*

広い道路にはつかまる手すりはおろか、ベンチもありませんでした。それでも、

それこそやっとの思いで、家にたどり着くことができました。

こうして、毎日、毎日を神様の恵みのうちに
その日、その日の糧をいただきながら…生きていかれれば。。。。。



2015年10月10日 (土)

本当の神さま

久しぶりに訪問したS修道院の庭で、これまた久しぶりにブラザーMにぱったり出会いました。

このブラザーは、もう90歳を越えているかもしれませんが、私が会うブラザーに「年齢」は存在しないような雰囲気を持っています。そのブラザーとの小さな会話:

「こんにちは、ブラザーM」
「あ、今日は、シスター」    しばらくの間、二人は取り留めのない話をしていました。

「シスター、私は早く天国へ行きたいよ。神さまに会いたいよ」

私は、どのように何を答えたらよいかわからなくて、ちょっとの間沈黙が流れました。

「ところで、シスター、シスターは天国を見たことがありますか」
「え?あぁ、子どものころ夢の中で天国を見たことがありますね」

ブラザーは笑って、
「どんなところだった?」

「うぅ~ん・・・ なんだか長い道がずっと続いていて、・・・」
「花がいっぱい咲いてるんでしょ?」
「そう、そうです。なんだか明るいきれいなところでしたよ」

「そこで、神さまに会いましたか?」
「いいえ」
「私は、毎日神さまに会いますよ」
「え?」
「はい、毎朝,祈りの中で神さまに会います」
「まぁ、すばらしいですね。」

でも、ブラザーは、ちっとも嬉しそうではありませんでした。

「シスター、私は自分の想像の神さまじゃなくて、ほんとの神さまに会いたいんですよ」

「ふぅ~・・・???」

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